お金がない!のはじまり

dropout
 

ドロップアウター。

現在進行形なのか?それとも過去のものなのかは、後の歴史に任せることにしたいです。

僕は平成不況と呼ばれる最中の1999年3月に芸術系の大学を卒業しました。

就職氷河期と呼ばれる苦しい時期にも関わらず、大学の同級生たちは、制作事務所や広告代理店、商社などへ立派に就職し、卒業前には早くも新入社員研修で社会人の一歩を踏み出していました。
その頃の僕と言えば、相変わらず学生時代と変わらず同じCDショップでアルバイト。モーニング娘。のLOVEマシーンとか、だんご3兄弟なんかを一生懸命売っていました。

就職活動を全くしなかった訳ではないです。しょっちゅう東京にも行きました。
ヤマンバが徘徊する大都会の中、汗を流し、お腹を空かせながら
明らかに落とされそうにも関わらずソニーミュージックやサンリオといった有名な企業、制作プロダクション、広告代理店等、なんとなくクリエイティブっぽい印象だと思えば面接して頂ける限り手当たり次第に訪問して這いずり回りました。
数打てばいつかは当たるとか気楽に思っていたし、なんのポリシーもビジョンもなかったので
本当にどこからも内定は頂けませんでした。

面接の記憶としては、創業間もないサイバーエージェントの面接に行った時のことを鮮明に覚えています。

会議室みたいなところでの集団面接で、長テーブルを囲んで座りました。
各々自己紹介、PRをしていくのですが僕以外はいわゆる東京六大学の学生とかばかり(汗)。

順番に『学生時代に起業しました!』とか『・・・・を開発していました』とか
なんかすげーこと言っていました。
はっきり言ってその頃の僕には宇宙人の会話のように聞こえました。
宇宙人たちのプレゼンテーションを聞きながら、心の中で、ヤベー!ヤベー!と叫びつつ
何を言おうかずっと考え続けました。
そして出番になり、

『京都から来ました。学生時代はロックしていました。』

その瞬間、苦笑いすら起きず空間がねじれてしまったような感覚は今でも忘れられません。
ほんと、言わなきゃよかった。
普段からなんの準備もなく、何にも考えてこなかった結果、出てきたセリフがコレだったんですね。

 

※画像はイメージです。

 

他にも苦い面接の思い出があります。
築地の巨大ビルにある広告会社へ面接に通いました。
2次、3次と突破し、苦労してようやく辿り着いた最終面接。
ズラリと並んだ役員の前で、こともあろうか自己PRの場で何故か

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踊ってしまった。

当時の自分に尋ねてみたい。『何故踊ってしまったんだ?』と。

そんな訳でめでたく就職浪人となりました。

初任給の話題などがニュースなどで流れるたびに胸が痛くなったものです。
バイト仲間とのんびりと過ごしながら3か月経過するも状況は同じでした。
もう、就職なんて永遠にできないという気持ちになり半年後には

完全に就活ドロップアウトしました。

両親にも帰ってこいと再三言われ、就職できていないということはイコール人間失格みたいな感じ。
劣等感だけは日増しに熟成されていきました。

思い返せば幼い頃から漠然と『働く』ということにイメージが湧かなかった。
それは年齢を重ねたら解消する問題だと思っていたけど
逆にますますイメージすることができなくなった。
もう少し言えば『将来の自分像』が全く想像できなかった。

昔からなりたい職業は?とか将来の夢は?とか聞かれて困った。
好きな芸能人(女優)のタイプは?と聞かれても答えられない感じと同じ
だって、『どれもええやん!』って思ってしまうから。

そんな感じで幼い頃から自分探しをどんなにし続けてもないものはない

ある奴はもう小さい時から持ってる。

今でもやっぱりそう思う。

昔から美容師になりたくてそうなった友達、料理人になった友達。
本当にすごいな、と。

就職した友人たちは、就職しないでヒモとか目指したら?とか、冗談か本気かわからない無責任なことを言われ
ますます落ち込みました。

そうしている間に、周りとの差はどんどん開いていき、たちまち財布事情が苦しくなっていきました。

なぜなら、就職した人間と一緒に出かけると
既に金銭感覚が全く違っていたから。

 

次回へ続く

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木村
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めぐれるの副編集長してる人。 静岡県浜松市出身、うなぎパイのとこです。 京都に来てはや20年以上。お酒とロックと夏が好き。 自由気侭なフリーランスで2児の父。